高校生活の中で文化祭の果たす役割は非常に大きなものがあります。通常の授業では経験できない人間関係が関わってきます。「生きる力」が言われて久しくなりますが、「生きる力」は、人間社会の中で、取り結ぶ力であるとも言えます。他人の言うことに耳を傾け、自分の言いたいことを伝えることが求められています。一つのことをやり遂げるために力を合わせる、この経験は人生の中で必ず活きてきます。文化祭はその取り組み方によって、よい経験となることは間違いありません。しかし、その効果を最大限得るためには、それだけの困難さを設定することが大切です。
東村山高校から南平高校へ転勤した時、 「文化祭や部活が盛んな学校です」と言われました。しかし、実際、その現場を見ると、ほとんど生徒任せであり、教員の手が入っていません。よい文化祭を作り上げるためには、一定のスキルが必要です。そのスキルを伝えるためには、先輩であるとか、教員の手助けが必要だと思っています。装飾の担当の生徒が入場のモニュメントを立体的に作りたいと私のところに相談にやってきました。それまではベニヤ板に絵を描いたものだけで、立体的に作ったことはないということです。当時流行っていた「千と千尋の神隠し」に摸して「湯屋」の門を作りたいというのです。垂木で枠を組み、表面を新聞紙を貼り合わせ、屋根瓦は段ボールで作る方法を教えました。
芝居に関心があり、舞台美術に興味があれば、さまざまなモニュメントの作り方がわかりますが、現在の高校生に望むべきものではありません。そうした「文化」を伝えていくのも教員の役割だと思っています。「教員は授業を主にしていけばいい。なるべく雑用はしない方がよい」という意見もありますが、何事も現状から出発すべきです。社会教育が未発達な日本の現状では、それを補う学校教育も一定期間必要でしょう。
ブラック部活といえば教員時代の部活の顧問もいろいろありました。顧問で敬遠されるのは、野球部、バレーボール部、吹奏楽部といったところがあります。何といっても、活動時間が長いのです。休日は、練習か、練習試合、公式戦とあるので休む暇がありません。もちろん、自分が経験者でそこそこ指導をして上をめざそうという気があれば、それも楽しみにはなりますが、そうした経験もない一般教員ならば、休み返上の部活顧問は敬遠したくなるものです。自分のことを言えば、中学で卓球部、大学で水泳部のそれこそ目の出ない部員だったので、体育系の顧問なんて、人の後をついていく位なものでした。悲劇?が訪れるのは40歳の時でした。それは女子バレーボール部で起こりました。前顧問は1年前に新設校に転勤していました。そのあとを体育科の転任者に引き継いでもらいました。当時、私は人事委員会のメンバーで、部活の顧問の調整をしていました。当然女子バレーボール部の顧問は引き継いでもらえるものと思っていたら、その方は別の部活の顧問を希望していて、女子バレーボール部の顧問の希望者がなく、私がお願いしに行きました。ところが、「女子バレーボール部の顧問をするくらいなら退職する」と言われてしまいました。家族の介護を抱え、休日の活動が行えないというのです。それならば、別の顧問を配置するなどの対策をとるからと言っても固辞されるのです。深く事情を聞いてみると、前顧問が合同練習と称して毎週生徒を呼び出すものだから、付き合わざるを得ないということがわかりました。練習に行くと体育科の付き合いということで練習後に酒盛りがあり、結局帰りづらくなり、顧問と介護の両立はできない結果になったということでした。たかが部活の顧問のために有能な教員を退職させるわけにはいかないので、顧問を変更せざるを得ませんでした。結局、その役割を押し付けられたのが私でした。一番の理由は元顧問とのつながりを断ち切ることができるということでした。バレーボールなどはレクレーション的にしかやったことのない私でした。
細かいルールはわからないし、練習法などの知識も皆無の状態からの出発でした。キャプテンを呼んで、最初に言ったのは、「合同練習は認めない。練習試合には付き合う。これを認めなければ、公式戦の引率しかしないから」と強引に押し通しました。それからルールブックを仕入れ、練習書を買いあさり、机上の知識を詰め込みました。練習は生徒と一緒にやりました。パス練習、アタック練習、レシーブ練習・・・すべて付き合いました。一応ルールは身につけましたが、バレーボールの顧問をやりたがらない理由は、公式戦で主審を務めなければならないことでした。公式戦は公認の審判員を同道することになっているのですが、いなければ公認資格がなくても顧問ならばできるというローカルルールがあったのです。最初の公式大会で会場主任に「審判をしたことがないので、どなたかにお願いできないでしょうか」と恐る恐る頼んだら、「最初は誰も初めてですから」と軽くいなされ、無謀にも主審をすることになってしまいました。これがその後10年以上にもわたってバレーボール部の顧問を続ける発端でした。
バレーボールの大会は、6チームで支部予選リーグを闘い、1・2位になれば、1部のトーナメント大会に出ることができ、3・4になると2部の大会に出ることができます。元顧問の時は、ほとんどが予選リーグを1位通過するのが常でした。そこまでは行きませんでしたが、それなりの成績は遂げられました。主審も微妙な判定もありましたが、なんとかできるようになりました。選手の方が顧問をかばってくれたというのが真相に近いと思っています。転勤するまでの3年間付き合いました。
11月初旬に高瀬渓谷に行ってきました。長野県の信濃川水系犀川の支流高瀬川の上流部です。紅葉がきれいだというニュースを聞き出かけました。高瀬渓谷は高瀬川電源開発で有名になったところです。関西電力が黒部川の電源開発で有名になりましたが、高瀬川は東京電力が開発したところです。もともと高瀬川は、大正年間に地元の電力会社が小規模の発電所を作っていたのが始まりです。戦後東京電力が水利権を引き継ぎ、大規模なダム建設の計画を持っていました。
しかし、発電事業が水力発電から火力発電に変化してきたため、計画は一時止まっていました。そこに変化をもたらしたのが原子力発電でした。一度発電をしはじめると停止させるのが困難な原発は、夜間に余剰電力が生じます。その夜間電力を利用して二つのダムを作り、夜間ポンプで水を上のダムに揚げる揚水発電の計画が作られ、高瀬川では1969年に着工する高瀬川電源開発計画が始まります。七倉ダムと高瀬ダムが作られ、1979年に完成します。
上流の高瀬ダムは176m、下流の七倉ダムは125mのロックフィルダムです。高瀬川は源流を槍ヶ岳北面側に発する急流の河川です。高瀬川で思い出すのは、以前に槍ヶ岳から烏帽子岳を巡る裏銀座の単独縦走をしていた時です。双六岳で幕営していた時に左ひざの傷口が化膿していたことに気がつきました。すぐにエスケープルートを探し、下山を考えました。三俣蓮華岳から伊藤新道から高瀬川沿いに下り、葛温泉からバスで帰るコースを選びました。伊藤新道はある個所登りのタイムと下りのタイムが同じ場所があります。あまりにも傾斜がきつくて、上り下りが同タイムになるのです。さらに途中5つのつり橋があります。道も花崗岩の風化してザレているところもあり大変な道でした。それでも必死に下り、1泊2日で帰京しました。すぐに医者に行きましたが、もう少し遅れたら、敗血症で命にかかわると言われた懐かしい思い出があります。
七倉ダムまで車で行き、特定タクシーで高瀬ダムまで移動しました。車中の紅葉はすばらしいものでした。高瀬ダムの堰堤からは槍ヶ岳が遠望できました。(写真) そこから半分はダム管理用の車道を歩きましたが、2時間半で伊藤新道とつながる湯俣温泉晴嵐荘までつながっています。伊藤新道は、とみると廃道になっていました。湯俣川と水俣川の分岐のところで道が切れ、川に入らなければ先に行けませんでした。装備もなしなので引き返してきました。伊藤新道の5つのつり橋はすべて落ちてしまったそうです。あとで記録を確かめたところ、高瀬川を下ったのは、完成した年の1979年である可能性が高いことがわかりました。車輪の大きさが人よりも大きな巨大なダンプが往きかい、8つのトンネルを歩いた記憶がよみがえってきました。